瀬島龍三, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=101905 / CC BY SA 3.0
#大日本帝国陸軍軍人
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#関東軍の人物
#日本の学校法人の理事長
#日本会議の人物
#シベリア抑留経験者
#勲一等瑞宝章受章者
#富山県出身の人物
#1911年生
少佐時代の瀬島龍三(1942年) 瀬島 龍三(せじま りゅうぞう、1911年12月9日 – 2007年9月4日)は、日本の陸軍軍人、実業家。
陸士44期次席・陸大51期首席。
太平洋戦争(大東亜戦争)のほとんどの期間、参謀本部部員(作戦課)を務めた。
最終階級は陸軍中佐。
戦後は伊藤忠商事会長、中曽根康弘元首相の顧問など多くの要職に就任し、政治経済界に大きな影響力を持ち、「昭和の参謀」と呼ばれた。
号は「立峰」。
妻の清子は、松尾伝蔵(陸軍歩兵大佐。二・二六事件に際し、義兄である岡田啓介首相の身代わりとなって反乱部隊に殺害された)の長女。
1911年12月9日、富山県西砺波郡松沢村鷲島(現在の小矢部市鷲島)の農家で村長の瀬島龍太郎の三男として生まれた。
砺波中学校(現:富山県立砺波高等学校)を経て東京陸軍幼年学校に入校し、陸士予科を経て、1932年に陸軍士官学校第44期(315名)を次席で卒業して恩賜の銀時計を拝受。
歩兵第35聯隊(富山)附で陸軍歩兵少尉に任官。
1938年12月8日に陸軍大学校第51期を首席で卒業し、恩賜の軍刀を拝受。
御前講演のテーマは「日本武将ノ統帥ニ就テ」。
その後、1939年1月15日に関東軍隷下の第4師団参謀として満州へ赴任し、同年5月15日には第5軍(司令官・土肥原賢二陸軍中将)参謀となった。
同年11月に参謀本部部員(作戦課)に補され、1945年(昭和20年)7月に関東軍参謀に転じるまで同職にあった。
翌1940年には、関東軍特種演習(関特演)の作戦立案にあたった。
1941年12月8日に太平洋戦争(大東亜戦争)が開戦。
ほとんどの期間を、参謀本部部員(作戦課)として陸軍の中枢にいた瀬島は、舅・松尾伝蔵の兄であり、戦争の早期終結のために動いていた岡田啓介(元首相、海軍大将)と連絡を保った(「岡田啓介#終戦工作」を参照)。
1944年12月から翌年2月まで、「瀬越良三」の変名を用いて、外交伝書使としてモスクワへ出張した。
1945年1月15日に島村矩康(陸士36期、陸軍大佐。大本営参謀 兼 聯合艦隊参謀 兼 中部太平洋方面艦隊参謀であった)が戦死すると、その後任に瀬島が選ばれ、同年2月に聯合艦隊参謀を兼務した。
同年3月、陸軍中佐に進級した。
菊水作戦(同年4月 – 6月)に際し、南九州に出張して、同地に展開していた第6航空軍を指導した。
同年6月末まで、聯合艦隊参謀として同僚である千早正隆(海兵58期)と共に本土決戦準備のため日本各地を調査した。
特に、高知県沿岸を決号作戦における米軍の上陸予想地点として、第55軍の作戦指導に熱心に取り組んだ。
瀬島は、迫水久常(鈴木貫太郎内閣の内閣書記官長)と親戚(「岡田啓介#人脈」を参照)であることを千早に打ち明け、迫水を通じて鈴木貫太郎首相に戦局の実情を訴えたという。
1945年7月1日、関東軍参謀に補され、満州へ赴任。
なお、前任者は皇族である竹田宮恒徳王陸軍中佐であった。
同年8月15日の日本の降伏後の8月19日、ジャリコーウォでソ連軍と停戦交渉を行う。
日本側の参加者は、関東軍総参謀長秦彦三郎中将(陸士24期)、作戦主任瀬島中佐、在ハルビン日本総領事宮川舩夫、ソ連側の参加者は、極東ソビエト赤軍総司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥、第一極東方面軍司令官キリル・メレツコフ元帥、同軍司令部軍事会議委員シュチコフ大将であった。
このとき瀬島は軍使として同地を訪れたため、内地に帰還することは可能であったが、同年9月5日、関東軍総司令官山田乙三陸軍大将(陸士14期)や総参謀長秦彦三郎陸軍中将らとともに捕虜となった。
この交渉の際、日本人労力提供について密約が交わされたという説が刊行されたが、瀬島は否定している。
その後、瀬島はソ連のシベリアへ11年間抑留されることとなる。
このとき本来捕虜としての労働の義務のない将校であるにもかかわらず強制労働を強いられ、建築作業に従事させられた。
瀬島は高橋ブリガードに配属されたが、特別の技術もなく何回か肺炎を患って体が衰弱していたので、外での労働は無理と判断され、班長の高橋重隆の配慮で左官の仕事が宛がわれた。
後にこのときのことを諧謔として「佐官が左官になった」と述懐している。
東京裁判証人として一時出廷[編集] この間、…